児玉語録4月号「日本学生卓球連盟 会長、明治大学卓球部総監督」~退任に寄せて~
2021/04/02
2021.4.1
『 日本学生卓球連盟 会長 、 明治大学卓球部 総監督 』
~ 退任に寄せて ~
私は2021年3月、日本学生卓球連盟会長と、明治大学卓球部総監督を退任した。
25歳で明治大学卓球部監督に就任し、途中 総監督になり、60年が経った。
私が入学した当時の明治大学は、野球・ラグビー・柔道・剣道・相撲などが体育会の中心で、卓球は女・子ども(当時の表現)がやるスポーツと見られていた。
その頃の明治は1部リーグの真ん中より下で、練習に熱心とは言えないチームだった。
当時(1950年代)は学生の卓球選手が日本を支えていて、世界を制覇していた。
1学年上には津内口弘志さん、牧野道也さんがいた。
津内口さんが主将となった時、「兒玉が強くならなければ、明治は強くならない」と言われて、ものすごい勢いで鍛えられた。そのおかげで、私は世界選手権の日本代表になった。
大学3年生で世界選手権の日本代表になったときも、明治大学の中では卓球は 見向きもされず、その悔しさが私自身のエネルギーになった。
卓球という競技は、技術的にも奥深く、体力面も厳しく、瞬発力も要する
素晴らしいスポーツなのに認められないことが、私は非常に悔しかった。
大学の卒業を機に、選手生活を終えると同時に、私は卓球部の助監督になり、
3年後、25歳の時に監督となった。同時に関東学連の副理事長に就いた。
翌年26歳の時、当時の関東学連の三浦理事長(早大OB)が病に倒れ、
断り続けたのだが結局 関東学連の理事長に就任せざるを得ないことになった。
昭和36年(1961年)に、関東学連の理事長に就任、副会長を歴任し、
1999年、関東学連の会長となった時点で、日学連の副会長となり、
2007年、日本学生卓球連盟の会長となり、今日まで14年間会長を務めさせていただいた。
その間、1963年28歳のときに日本卓球協会の、最も若い理事として就任し、
常務理事、専務理事代理、選手強化委員長など歴任した。
1965年、ユーゴスラビアのリュブリアナで行われた世界選手権の監督に、
荻村伊智朗氏とともに推挙された。
荻村氏が31歳、私が29歳の時だった。
私は大学卒業後、兄と2人で始めた会社が、まだよちよち歩きの頃だったので、
とても世界の監督などは引き受けられないとお断りした。
ところが、荻村さんが朝の6時ごろに我が家に訪ねて来られ、
「兒玉さん、2人で打倒中国を果たさないと、これからどんどん中国に引き離されてしまう。だから何とか引き受けてもらいたい!」と、ものすごい情熱で口説かれた。
大学の恩師や会社の人たちと相談した結果、卓球界への恩返しとして引き受けた。
一番の理由は荻村さんの情熱にほだされたことだ。
日本代表の監督となってからの半年間、合宿や遠征などでは、
ツインルームで彼と2人で卓球の奥深い話や、今後の卓球界はどうあるべきかなど、 とことん語り合い、同士とも言える間柄になった。
荻村さんの卓球理論は素晴らしかった。
行動にも理論があり、やると決めたらその執念はものすごいものがあった。
私も卓球への情熱は誰にも負けないと思っていたけれど、荻村さんの情熱にだけは 勝てないと思った。
この時の経験を通して、卓球の神髄、奥深さ、物事に打ち込むことの素晴らしさを、
心の底から知った。
2人の話し合いの中で荻村氏は「日本の卓球界は欧米と同じようなクラブ方式の一貫教育で育てないと(中国はもっとすごい一貫教育です)世界から遅れをとってしまう」と主張した。
私は、今の日本の6・3・3・4制という教育システムは、確かに小・中・高・大で、 ぶつん、ぶつんと指導者が変わり、一貫性が保てないことは確かにあるけれども、
現在の日本の学生スポーツのあり方が、そう簡単に崩れてしまうことは考えられない。
少なくとも私の目が黒いうちは…。
だから私はそういう問題を少しでも克服しながら、学生スポーツの発展に寄与していく。
ということで荻村氏は「クラブ方式」、私は「学生スポーツ」で、
目指す高い山の頂は同じだけど、2つの方式でお互いに願晴っていこう。
という結論になり、私は今日まで学生スポーツの発展に努力してきた。
そしていくらかでも寄与できたのかな…などと思ったりしています。
日本代表監督、明治の監督、学連の理事長、日卓協の理事、強化委員長、
そして会社の経営を同時にこなしてきたが、選手時代に歯を食いしばって
卓球に打ち込んできたことは、その後の仕事でも生きている。
まさに「思いは叶う」「努力は才能に優る」。私のすべては卓球で培われた。
すべては卓球のおかげであり、仕事で壁にぶつかったときでも、絶対諦めない精神力を私は卓球から学んだ。
全日本の監督をやっていた頃、「明治が弱いのに何が全日本の監督だ」
という風聞が私の耳にも入ってきた。
「よし、それなら明治を強くしよう」と考え、徹底的に対策を考え、選手を鍛えた。
その後に明治大学の100周年があり、
「その年に優勝し花を添えることが、卓球部として大学に貢献することになる」と決心し、あらゆる努力をして28年ぶりに優勝することが出来た。
それからさらに約40年にわたり、日本代表選手団は、明治の現役・OBが主力となって 活躍している。
齋藤清という歴史に名を残す選手が入学する前に、日本を制覇したということにも
大きな意味があった。
私にとって明治大学卓球部の選手たちは全員が可愛い後輩たちだ。
卓球を終えても充実した、豊かな人生を送ってほしいと思う。
時代とともに学生の気質は変化している。気質も時代も変化しても、変わらないのは 明治の紫紺のウエアを着たくて、明治に入ってきた選手たちの心意気だろう。
「明治大学卓球部」としての誇りと自信を持って人間力を高めなければいけないと、 部員たちには常に話をしている。
2016年 リオ・オリンピックで水谷と丹羽がメダルを獲得したときには本当に嬉しく、
たくさんの方から「卓球はすごいですね。格闘技ですね。」と言われた。
夏に迎えるだろう東京オリンピックで水谷は自分の背中を見せて、
チームメイトを奮い立たせて、戦ってほしい。
近い目標を達成していく、というモチベーションを上げるのは難しくはないが、
モチベーションを長い期間維持することは非常に難しい。
現役の選手諸君、そして社会に出た卓球部のすべてのOBには、
「明治大学卓球部」 としての誇りと自信を持ってほしい。
私は仕事の面でも、会社を経営していく上でも、壁にぶつかり、苦労を重ね、
幾多の困難を乗り越えてきたが、そんな時は常に卓球で培ってきた努力、熱意、思い、 負けじ魂などがエネルギーとなり、心の核となって支えてくれた。
「卓球は女・子どものスポーツ」と言われた悔しさ、
「自分の母体が弱いくせに全日本監督なんて」と言われて発奮した私自身。
つまり、そこには反骨の精神があった。
私は骨の髄まで卓球を愛し、卓球に捧げ、
私の人生の真ん中に卓球があり、そのまた真ん中に大学の卓球界があり、
そのまた真ん中に明治の卓球があった。
皆さん、長い間、わがままな私をご指導いただき、
ご協力いただき、本当にありがとうございました。
尚、日本学生卓球連盟 会長は河田正也氏(日清紡ホールディングス代表取締役会長)に
ご依頼申し上げたところ、熟考の上、快くお引き受けいただきました。
また、明治大学卓球部 総監督は、齋藤清氏にバトンタッチが出来ました。
ご両氏ともに、安心してお任せ出来ましたことを心から嬉しく思っています。
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