児玉語録11月号『馴れるとは大切な才能』を掲載
2018/11/03
『“馴れる”とは大切な才能』
あらゆる資質(才能)の中で、最も大事な資質は、
「“努力することが出来るかどうか”という資質である 」というのが、
何百人もの選手を育ててきた私の結論であり、持論です。
そして、それに加えて“馴れる”ということも大事な才能であると思っています。
太平洋戦争の後、ロシア軍に抑留され、シベリアの獄中で食べる物もなく極寒の中、
過酷な労働を強いられながら生きてこられた、捕虜になった方々のお話しは
聞くに堪えないものでしたが、「どうしてあんな環境で何年も生きてこられたのか、
今考えてもどうしても分からない」と言っておられます。
ということは人間はどんなことにも“馴れることの出来る存在”なのだ・・・
と考えられます。
私は小学校4年の終わりに集団疎開し、現地ではお湯の中にご飯つぶがパラパラと 入っているようなおもゆと、ほんの少しの一菜がある程度で、
食べ盛りの我々は常にひもじい思いをして、やせ細っていた。
たまに畑仕事に行くと皆喜んで、先生の目を盗んではサツマ芋やジャガ芋などを掘り出し土を手で払いのけ、生のままガリガリ食べるのが嬉しくて、楽しみにしていました。
寝るのはザコ寝、肌着にはノミとシラミのオンパレードで、
とても手で取ることは出来ず、熱湯で煮詰めなければ殺すことも出来ない
という生活を続けておりましたが、そういう環境はなんの懸念もなく、
戦時中は当たり前のこととして生活をしていました。
私は中学の終わり頃、あるキッカケで卓球に興味を持った。
町の卓球場に行き、やり始めたらすっかり卓球の魅力に引き込まれ、
無我夢中で、朝早くから夜遅くまで一日12時間は卓球場に入り浸りの日が続いた。
春休みが終わり、高校の卓球部に入り、2年次の秋から3年次にかけて、
全日本ジュニア、高校総体、国体などの東京都代表となり、活躍することができた。
明治大学では私の1年先輩の津内口弘志さんが主将となり卓球部の空気が一変し、 大きな転機となった。
彼は明治大学卓球部を強くするために妥協を許さず、厳しい訓練を強いた。
特に私にはすさまじい迫力で、
「兒玉が強くならなければ、明治は強くならない」と言い徹底的に鍛えられた。
海岸の砂浜でウサギ跳びのリレー競争をやったり、
フットワークは相手を何人も変えて 毎日平均1時間半位行った。
私も頭がカッカとして「止めろ」と言われても止めずに、2時間以上休みなしで
意識がもうろうとなっても続け、ぶっ倒れて、バケツで水をかけられ意識を回復する、といったような経験もした。
当初は津内口さんの厳しさを恨んだりしたが、そのおかげで、
私は精神力の面で成長し、もちろん体力、忍耐力、胆力、勝負強さなどが培われた。
その年の暮れには世界選手権大会の日本代表に選出され、本戦では外国の選手に
負けることなくベスト16に入り、当時世界チャンピオンの田中利明選手と、
同士討ちとなり、敗れはしたが、自分では納得のいく試合が出来た。
津内口さんは私の人生に大きな影響を与えてくれた、
生涯忘れることの出来ない恩人である。
つまり人間は、どのような過酷な環境の中でも“馴れる”ことによって生きていけるのだということです。
極論すれば、生きることは“馴れる”ことであるともいえると思います。
“馴れ”というのは、環境の変化に対応し、不安を取り除いてくれる一種の能力だと
考えることができる。
新しい環境への変化や非常に厳しい訓練に身を置いたとしても、
いずれは必ず馴れてくるものです。
ですから“馴れる”という能力は非常に大切な才能の一つだと感じます。
児玉圭司名誉総監督
昭和35年~45年
明治大学体育会卓球部監督
昭和45年~令和2年
明治大学体育会卓球部総監督
令和3年~現在
明治大学体育会卓球部名誉総監督
(株)スヴェンソン 代表取締役会長
日本学生卓球連盟 名誉会長
明治大学駿台体育会 名誉会長
- 昭和31年
- 世界選手権シングルスベスト16
- 昭和40年
- 第28回世界卓球選手権 日本代表監督
- 昭和48年
- 第32回世界卓球選手権 日本代表監督
- 昭和50年
- 第33回世界卓球選手権 日本代表総監督兼監督